1841〜1913
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(佐野駅から車で15分)
日本初の国会議員の1人であり、生涯民衆のために闘い続けた田中正造。最近では、一身を犠牲にして鉱毒被害民を救おうとして、天皇にまで直訴した「義人」というイメージから解放されて、新しい人間像として再評価されています。
明治維新後の日本は、ひたすら近代化にはげんでいました。そのスピードは異常であり、その結果としての歪みがさまざまな形であらわれました。足尾銅山が早くから国家の保護を受けながら、その生産量を飛躍的に高めた一方で、銅山の鉱毒によって数十万町歩を毒野と化され、民衆が苦しんでいるのを見た正造は、彼等のために救済に立ち上がり、一生涯を通して共に闘いました。ここ数年、種の絶滅の危機が叫ばれ、人間さえも、自らのテクノロジーの未来に不安を覚える現在ほど、彼の思想が身にしみる時代はないでしょう。また、晩年の谷中村における苦闘のなかから生みだされた人権と自治の思想、そして水の思想などは、現在のわれわれに切実な問題を提起しているといえるでしょう。正造は死の直前の日記のなかでこう記しています。「物質上・人工人為の進歩のみを以てせば社会は暗黒なり。デンキ開ケテ世見暗夜となれり、然れども物質の進歩を怖るゝ勿れ。此進歩より更ニ数歩すゝめたる天然及無形の精神的発達をすゝめバ、所謂文質彬々知徳兼備なり。日本の文明今や質あり文なし、知あり徳なきに苦しむなり。悔改めざれバ亡びん。」(大正2年7月21日)
ここには、近代文明の物質万能主義に対する批判があります。
この緑豊かな水の都に、正造が生を受けたのは偶然ではありません。育まれるべく土壌があったのです。
田中正造略歴
1841年(天保12)11月3日、安蘇郡小中村(現佐野市小中町)に名主の長男として生まれ、若くして名主となりました。六角事件により、11ヶ月投獄されました。30歳の年に、上役暗殺の疑いをうけ再び投獄されることになり、ここでの2年9ヶ月の獄中生活は正造の思想形成に大きな影響を与え、後の政治志向への大きな源流となっております。小中村に戻った正造は、区会議員、栃木県会議員を経て、第1回衆議院選挙に当選し、以後も6回連続当選する。帝国議会に「足尾銅山鉱毒問題」についての質問書を提出し、被害民とともに足尾銅山鉱業停止運動を推進する。しかし、議会に愛想をつかした正造は、議員を辞職し天皇に直訴を決行。渡良瀬川下流域を遊水池にする計画が起きると、谷中村に入村し、遊水池反対運動に励む。晩年、政府の治水政策を正すため関東各地の河川の実地調査を始め、1913年(大正2)河川調査から谷中村への帰途、病に倒れ、72歳で死去されました。遺骨は5ヶ所に分骨し埋葬されています。
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